Green, Forest and Nature.

WEBLOG articles by the Vice Chairperson of The Mountain Naturalist Club

玉川上水~連続講座から・2 江⼾市中へ

玉川上水 江⼾市中へ:甲州街道内藤新宿・四谷大木戸

甲州街道

甲州街道は: 半蔵門~外堀(四谷見附)~四谷大木戸までは江戸市中
(大木戸から市外へ)~内藤新宿~八王子~甲府信濃国下諏訪宿中山道と合流します。
新宿界隈から江戸城内へは現在の新宿通りを通っていきます。この通りは 現在も様々に使われているそうです。

和泉給水所~新宿の玉川上水

和泉給水所から新宿の玉川上水が通っている場所を地図に表してみます。

図9_和泉給水所-新宿の玉川上水
図9_和泉給水所-新宿の玉川上水

地図:国土地理院・デジタル標高地形図を元に作成

玉川上水が、現在も使われている甲州街道に沿いながらも小さな谷を避けながら台地の一番高いところをうまく通している様子がわかります。甲州街道徳川家康の入府に際し江戸城陥落の際は甲府まで将軍の避難路として使用することを想定して造成されたといわれています。そのため甲州街道沿いには入口に当たる四谷大木戸に内藤家、その先にも信頼のおける家臣を配置しました。そのことが玉川上水保全にも寄与したと考えられます。

内藤新宿の近くを流れる玉川上水
図10_内藤新宿と玉川上水
図10_内藤新宿玉川上水

なかなか良い風情です。 今でもこんな感じだったら、世界でも有数のお散歩スポットとして人気のある場所になったことでしょう。現在、新宿御苑は外国から来る方にも人気があるようですが そのことを考えると、なおさら 上水の風景が失われてしまったのは残念です。

四谷大木戸水番屋

新宿の歴史博物館、区民センターなどで、往時の四谷大木戸付近の地図や絵図を見ることができます。散策するときには、立ち寄ってご覧になることができます。

図11_四谷大木戸の水番屋
図11_四谷大木戸の水番屋

番所に詰めている水番人は水量を測定し,芥溜に溜まったごみを揚げる大切な役目を務めていたそうです。
水量が足りなくなりそうな場合、分水口ふさぎの命が四谷大木戸水番人→代田村水番人→砂川村水番人→羽村水番人の順で廻状で伝えられました。
すごい情報網だと感じますが 当時はしっかり行われていたことと考えられます。

神田_玉川上水の主要樋筋(1680年代)

資料館に展示されている主要な樋の地図です。1680年代の様子が描かれているそうです。

図12_神田_玉川上水の主要樋筋図.jpg
図12_神田_玉川上水の主要樋筋図.jpg

江戸の街は地形を利用した開発、「丘」と「谷地」の形に合わせた住み分け(ゾーニング)がなされました。計画的な配置により、上水道・物流網の整備にも成功したと言えます。水を利用した経路もしっかり配置されています。この土地利用は基本的に近代以降も受け継がれていき、現在に至っています。

四谷大木戸から四谷見附、四谷見附から赤坂・虎の門の約2.5km、地下9尺には石樋が敷設されました。四谷見附から江戸城までは木樋で、麹町~半蔵門を通って城内に。四谷見附からもう1つ、外濠を紀伊国坂に沿って赤坂門から虎の門までは石樋が敷設、そこから先、江戸西南部の武家屋敷や町々に給水されました。

石樋の構造図

多摩川誌 より)

図13_玉川上水の石樋の構造
図13_玉川上水の石樋の構造

石樋の内径は1,500 mm。
1個180 kg以上の間知石を5段積みにして石の間には栗石粘土を塗り込んでありました。
上部の石蓋は長さ約1.8 m、幅約60 cm、目方約370 kgの石板を両側の石壁にかけ渡していました。

木樋の用材は水に強いマツやヒノキを用いたとされています。江戸城に至る施設には木曽ヒノキが使われ、 尾張藩が供出を命じられた記録があるそうです。

図14_玉川上水の石樋と木の樋
図14_玉川上水の石樋と木の樋
和田倉噴水公園に展示されている水見桝
和田倉噴水公園に展示されている水見桝

皇居の和田倉噴水公園に展示されている水見桝です。和田倉橋を渡るところにあった水見桝で 三段重ねの最下部だそうです。

「水屋」と「水船

(図:東京都水道歴史館の展示資料)

図16_水屋と水船
図16_水屋と水船

「水屋」と「水船

和田倉門の先に日本橋川へ吐水を落とす場所があり、そこから上水を使用していました。
水屋は銭瓶橋から許可を得て吐水を舟に乗せ、本所や深川など隅田川の対岸地域に水を運んだそうです。

玉川上水~連続講座から・1 羽村~江戸へむかう上水

江戸の街を支えた玉川上水

山の自然学クラブでは、複数回にわたって玉川上水の観察会を行いました。羽村の取水口から四谷大木戸まで全区間を複数回に分けて見学しています。玉川上水について簡単にまとめました。

玉川上水 とは

玉川上水は、多摩川上流の羽村取水堰から9市4区(羽村市福生市昭島市立川市小平市小金井市武蔵野市西東京市三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区)を通り、新宿区の四谷大木戸に至る総距離約43kmの上水路です。現在でも上流部は、現役の上水導水路として活躍しています。玉川上水は東京の地形をきわめて上手に利用して作られています。大正の関東大震災でも大きな被害はありませんでした。

図1_玉川上水全体図
図1_玉川上水全体図
玉川上水の歴史

1.玉川上水開削以前の江戸の水事情
 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川(文京区小石川)に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作りました。その後、寛永年間 (1624-44年)には江戸の拡大発展に応じて井の頭池善福寺池妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が作られました。
 一方、江戸の南西部(下町側)は赤坂溜池を水源として利用していました。
 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ドン・ロドリゴの見聞録による)でしたが、3代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。既存の上水だけでは足りなくなり、さらに新しい水道の開発が迫られるようになりました。
 玉川上水の完成により、千川上水(江戸北部―入谷浅草)や三田用水(品川方面)の利用が始まり、また後には、玉川上水の分水によって、武蔵野の原野が耕作地となるなど武蔵野から江戸の土地利用や開発が促進されることになりました。

2.神田上水に続く開発を~玉川上水の開削へ
 承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43 km、標高差約92 m、10 kmあたりわずか20 m程度の緩勾配(0.214%)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線(尾根)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

1652年 幕府によって上水の計画がなされる。
1653年 庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請け負う
2度?の失敗の後、私財をも投入した突貫工事で翌年には新宿まで開通※
1654年 江戸への給水を開始
1898年(明治31年) 新宿淀橋浄水場 完成。 杉並区和泉(和田堀)から 新水路敷設
1965年(昭和40年) 東村山浄水場 完成。淀橋浄水場 廃止
1986年(昭和61年) 小平以降に、下水処理水を流した 清流復活
2003年(平成15年) 国指定の 史跡 となる
2010年(平成22年) 新宿御苑北縁に流れを復活させた「散策路」が作られる

※当初、青柳村(現在の国立市青柳)からを掘削はじめ、府中の辺りから武蔵の面に導水する計画であったがこの計画には無理があって、実際には武蔵の面まで持ち上がらない。川越藩主でもあった老中松平信綱の家臣が、羽村からの取水をアドバイスするなど経緯があって、ようやく完成を見たそうです。

図2_都水道歴史館資料より
図2_都水道歴史館資料より
玉川上水が作られる以前の武蔵野 水環境

玉川上水が作られる以前の武蔵野は、どのような環境だったのでしょうか。それを知るひとつの手がかりが、このまいまいず井戸です。
水を得にくい台地上の位置する武蔵野には、このような井戸が各地に掘られてあったようです。羽村駅の近くにあるこの井戸は、昭和30年代まで使われていたこともあり、今でも水を湛えています。

図3_まいまいず井戸
図3_まいまいず井戸

羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水の原水は現在、小平監視所から地下の導水管(砂川線:2300 mm径)により東村山浄水場へ送水されています。つまり、ここが多摩川からの水が見られる最終地点、ということになります。

羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水は
羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水

淀橋浄水場の廃止後、導水路としての使命を終え、流れの途絶えていた小平監視所下流玉川上水は、玉川上水愛する人々の尽力もあって昭和61年、清流復活事業により流れが復活しました。
現在は多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された再生水が流されています。

清流復活事業により流れが復活した玉川上水
清流復活事業により流れが復活した玉川上水
明治期の改修で玉川上水と交差する形になった残堀川
図6_残堀川
図6_残堀川

明治期の改修で玉川上水と交差する形になった残堀川。当初は上水の下をくぐっていたものですが、昭和60年代に上水が下をくぐる形に変更されました。左写真は交差部分の残堀川、写真正面の壁の金網の向こうに玉川上水の上流側が見えています(矢印で示した場所)。
 右写真は上水が残堀川をくぐったサイフォン出口。奥に見える青色の欄干の橋が左写真にもある橋で、その下が残堀川です。

水喰い土:玉川上水の工事失敗のあと

 「みずくらいど」という地名は、玉川上水開削工事の際、この付近で水がすべて地中に吸い込まれてしまって失敗したことに因んでいると伝えられています。最近の調査結果では、当初は地形を活かして立川段丘崖に沿って開削したものの、このあたりは特に勾配が小さく(平均縦断勾配0.8/1000)、段丘崖を上りきることが困難であると考えられたため、水喰い土を放棄し、新たな水路を設計しなおしたと考えられています

図7_水喰い土_福生市熊川
図7_水喰い土_福生市熊川

地図の灰色の線が放棄された水路、水色の線が実際に通水した玉川上水

図8_水喰い土の説明_福生市
図8_水喰い土の説明_福生市

(現地に設置されている看板「市史跡:玉川上水開削工事跡」福生市教育委員会)より転・追記

玉川上水 江戸市中へ: 甲州街道内藤新宿・四谷大木戸(後編へ)

岩井崎(気仙沼市) ~古生代の暖かい海で形成されたサンゴ礁の化石群を歩く

三陸自然学スポット紹介・岩井崎の海岸

行ってみよう、見てみよう。三陸の地元学・自然学

岩井崎(気仙沼市) ~古生代の暖かい海で形成されたサンゴ礁の化石群を歩く~

岩井崎を構成しているのは、古生代ペルム紀中期(約2億8900万年前~2億4700万年前)の石灰岩で、岩井崎層と呼ばれています。ゴンドワナ大陸の端、赤道付近にあった頃、サンゴ礁で生成された岩だと考えられています。
岩井崎層の上(新しい)にはペルム紀後期の登米層の泥岩(粘板岩)が重なっています。
岩井崎では、古生代の海に生息していたフズリナ、ウミユリ、群体四射サンゴ、その他にも石灰海綿やコケ虫、腕足類、三葉虫、有孔虫など、たくさんの種類の化石が見られます)。
地層が傾いているため、西側寄りに行くほど年代が新しくなります。そのため、東側の浪打際で見られるウミユリ(写真)や紡錘虫(有孔虫類、写真)、フズリナ(写真)の化石群の上に、西に行くとサンゴ礁のラグーン(礁湖)の化石群(写真)が乗っているのが観察できます。わずか百~二百メートル歩くだけで、この地域(の地層が堆積した場所・時期)の何千万年もの環境変化を体感することができる観察地です。

三陸自然学スポット紹介/岩井崎 ~古生代の暖かい海で形成されたサンゴ礁の化石群を歩く~
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