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WEBLOG articles by the Vice Chairperson of The Mountain Naturalist Club

玉川上水~連続講座から・1 羽村~江戸へむかう上水

江戸の街を支えた玉川上水

山の自然学クラブでは、複数回にわたって玉川上水の観察会を行いました。羽村の取水口から四谷大木戸まで全区間を複数回に分けて見学しています。玉川上水について簡単にまとめました。

玉川上水 とは

玉川上水は、多摩川上流の羽村取水堰から9市4区(羽村市福生市昭島市立川市小平市小金井市武蔵野市西東京市三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区)を通り、新宿区の四谷大木戸に至る総距離約43kmの上水路です。現在でも上流部は、現役の上水導水路として活躍しています。玉川上水は東京の地形をきわめて上手に利用して作られています。大正の関東大震災でも大きな被害はありませんでした。

図1_玉川上水全体図
図1_玉川上水全体図
玉川上水の歴史

1.玉川上水開削以前の江戸の水事情
 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川(文京区小石川)に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作りました。その後、寛永年間 (1624-44年)には江戸の拡大発展に応じて井の頭池善福寺池妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が作られました。
 一方、江戸の南西部(下町側)は赤坂溜池を水源として利用していました。
 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ドン・ロドリゴの見聞録による)でしたが、3代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。既存の上水だけでは足りなくなり、さらに新しい水道の開発が迫られるようになりました。
 玉川上水の完成により、千川上水(江戸北部―入谷浅草)や三田用水(品川方面)の利用が始まり、また後には、玉川上水の分水によって、武蔵野の原野が耕作地となるなど武蔵野から江戸の土地利用や開発が促進されることになりました。

2.神田上水に続く開発を~玉川上水の開削へ
 承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43 km、標高差約92 m、10 kmあたりわずか20 m程度の緩勾配(0.214%)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜線(尾根)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

1652年 幕府によって上水の計画がなされる。
1653年 庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請け負う
2度?の失敗の後、私財をも投入した突貫工事で翌年には新宿まで開通※
1654年 江戸への給水を開始
1898年(明治31年) 新宿淀橋浄水場 完成。 杉並区和泉(和田堀)から 新水路敷設
1965年(昭和40年) 東村山浄水場 完成。淀橋浄水場 廃止
1986年(昭和61年) 小平以降に、下水処理水を流した 清流復活
2003年(平成15年) 国指定の 史跡 となる
2010年(平成22年) 新宿御苑北縁に流れを復活させた「散策路」が作られる

※当初、青柳村(現在の国立市青柳)からを掘削はじめ、府中の辺りから武蔵の面に導水する計画であったがこの計画には無理があって、実際には武蔵の面まで持ち上がらない。川越藩主でもあった老中松平信綱の家臣が、羽村からの取水をアドバイスするなど経緯があって、ようやく完成を見たそうです。

図2_都水道歴史館資料より
図2_都水道歴史館資料より
玉川上水が作られる以前の武蔵野 水環境

玉川上水が作られる以前の武蔵野は、どのような環境だったのでしょうか。それを知るひとつの手がかりが、このまいまいず井戸です。
水を得にくい台地上の位置する武蔵野には、このような井戸が各地に掘られてあったようです。羽村駅の近くにあるこの井戸は、昭和30年代まで使われていたこともあり、今でも水を湛えています。

図3_まいまいず井戸
図3_まいまいず井戸

羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水の原水は現在、小平監視所から地下の導水管(砂川線:2300 mm径)により東村山浄水場へ送水されています。つまり、ここが多摩川からの水が見られる最終地点、ということになります。

羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水は
羽村の堰で多摩川から取り入れた玉川上水

淀橋浄水場の廃止後、導水路としての使命を終え、流れの途絶えていた小平監視所下流玉川上水は、玉川上水愛する人々の尽力もあって昭和61年、清流復活事業により流れが復活しました。
現在は多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された再生水が流されています。

清流復活事業により流れが復活した玉川上水
清流復活事業により流れが復活した玉川上水
明治期の改修で玉川上水と交差する形になった残堀川
図6_残堀川
図6_残堀川

明治期の改修で玉川上水と交差する形になった残堀川。当初は上水の下をくぐっていたものですが、昭和60年代に上水が下をくぐる形に変更されました。左写真は交差部分の残堀川、写真正面の壁の金網の向こうに玉川上水の上流側が見えています(矢印で示した場所)。
 右写真は上水が残堀川をくぐったサイフォン出口。奥に見える青色の欄干の橋が左写真にもある橋で、その下が残堀川です。

水喰い土:玉川上水の工事失敗のあと

 「みずくらいど」という地名は、玉川上水開削工事の際、この付近で水がすべて地中に吸い込まれてしまって失敗したことに因んでいると伝えられています。最近の調査結果では、当初は地形を活かして立川段丘崖に沿って開削したものの、このあたりは特に勾配が小さく(平均縦断勾配0.8/1000)、段丘崖を上りきることが困難であると考えられたため、水喰い土を放棄し、新たな水路を設計しなおしたと考えられています

図7_水喰い土_福生市熊川
図7_水喰い土_福生市熊川

地図の灰色の線が放棄された水路、水色の線が実際に通水した玉川上水

図8_水喰い土の説明_福生市
図8_水喰い土の説明_福生市

(現地に設置されている看板「市史跡:玉川上水開削工事跡」福生市教育委員会)より転・追記

玉川上水 江戸市中へ: 甲州街道内藤新宿・四谷大木戸(後編へ)